景清の塚に現れた返歌の老人
どんな伝承か
代官の池田喜八郎が西国を支配していた享保八年、日向の国に景清の塚があると聞いて土地の古老に尋ねると、宮崎郡下北方村の沙汰寺という小寺の石碑がそれだという。見れば苔むして水鏡居士と彫ってある。喜八郎は歌を詠んで書きつけ、手代に持たせて墓に手向けさせた。すると頬骨の張った恐ろしげな老人が現れて何事かと問い、わけを聞くと、殊勝なことだ、自分は字が書けないので書いてくれと頼んで返しの歌を詠み、かき消すように失せた。近くの草刈りの子に尋ねても、どこの人とも知らないと答えたという。
原典より
い、てかき消て失ぬる故、其辺の草苅童子に尋しに、「何方の人にや不覚もの」、よし申せしとや。—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。