寛文年間に開かれた新利根川と豊田堰
どんな伝承か
寛文二年寅年、押付・中田切などの地を掘り割って利根川の水を十六島へ流したのが新利根川である。布佐の高台から布川の〆切の間は川幅が狭く、洪水のたびに難儀したため新川を掘ることになり、寛文六年に完成した。ところが川筋が直行するため水が涸れて舟の通行ができなくなり、同九年、改めて布佐と布川の間を流すことになった。そこで新利根川の口を塞ぎ、羽根野に水門を設けて小貝川の水を入れ用水とした。天保十年に豊田へ移し、以後豊田堰と呼ぶようになった。間部若州侯の開鑿を記す碑があり、下総旧事考にもその堤と堰の記述が載る。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
相馬伝説集(寺田喜久(狂花)・相馬郷土研究・1922年(大正11年))
『相馬伝説集』は、寺田狂花が著し、大正十一年二月の自序を付した下総相馬地方の伝説集である。北相馬郡の小文間・布川・取手・守谷などを中心に、平将門や一色宮内にまつわる伝承、寺社の縁起、城址や墓碑、相馬霊場の札所を記し、猿島郡・結城郡・東葛飾郡などの伝説にも及ぶ。巻頭に緒言と坂巻湖舟の序・自序を置き、「△」を付けた小項目を土地ごとに並べ、『相馬日記』『下総旧事考』などの記事を引き、相馬の俗信も書き留めている。