鎌原村の生き残りを一族にした三人
どんな伝承か
上州吾妻郡の鎌原村は浅間山の北の裏にあり、山焼けのとき泥と火石が押し寄せる鉄砲の筒先のような場所だったため、三百人ほどの村人のうち子どもを含め九十三人が残っただけだった。途方に暮れる生存者を、同郡大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門が引き取って養い、跡地に小屋を二棟建てて麦や粟を送り続けた。三人は、家筋を重んじる百姓の習いも大変の前には捨て、生き残った者は骨肉の一族と思うべきだとして親族の約束を結ばせ、夫を失った女と妻を失った男、子を失った老人と親のない子を取り合わせて、皆を一家にした。三人は褒美を受け、一代帯刀と名字を許されたという。
原典より
か、る大変に逢ては生残りし九十三人は誠に骨肉の一族とおもふべし」とて、右小屋にて親族の約諾をなしける。—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。