秀吉に城を貸さなかった鬼作左の墓
どんな伝承か
取手市青柳の本源寺に鬼作左こと本多作左衛門重次の墓がある。重次は徳川家康に仕えて忠義に厚く、比類ない剛毅さから鬼作左と呼ばれた。秀吉が家康と和睦して大政所を人質に送ったとき、重次は京都に異変があれば焼き殺すつもりで大政所の側に薪を積み、秀吉の怒りを買った。小田原の役では駿府城を守り、凱旋の途中の秀吉が城を借りようとしたのを主命なしには貸せぬと拒んで将卒を憤らせた。家康は密かにその忠節を喜んだが、秀吉は重次を臣に列してはならぬと書を送り、家康はやむなく三千石を与えて重次と別れた。重次は二君に仕えずと再仕官を断って井野村に居を構え、慶長元年七月二十六日に六十八歳で没した。法名は浄運という。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
相馬伝説集(寺田喜久(狂花)・相馬郷土研究・1922年(大正11年))
『相馬伝説集』は、寺田狂花が著し、大正十一年二月の自序を付した下総相馬地方の伝説集である。北相馬郡の小文間・布川・取手・守谷などを中心に、平将門や一色宮内にまつわる伝承、寺社の縁起、城址や墓碑、相馬霊場の札所を記し、猿島郡・結城郡・東葛飾郡などの伝説にも及ぶ。巻頭に緒言と坂巻湖舟の序・自序を置き、「△」を付けた小項目を土地ごとに並べ、『相馬日記』『下総旧事考』などの記事を引き、相馬の俗信も書き留めている。