お鷹場だった戸田の苦労
どんな伝承か
江戸の世、戸田は江戸を囲む六筋のお鷹場の一つに数えられ、将軍が代替わりしても鷹狩りは続けられた。将軍の一行があちこち歩き回るうちに土地は少しずつ切り開かれて畑になっていったという。鷹の餌を蓄えておく務めがあったため年貢は他所より安く、暮らしやすかったとも言われる。その一方で、鷹はもちろん鴨一羽でも捕まえたことが知れれば罰せられ、狩りのたびに田畑は踏み荒らされて、村人の苦労は並大抵ではなかった。
原典より
徳川時代の戸田は、江戸を中心とする六筋のお鷹場の一つであった。—— 戸田市史 民俗編 より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
戸田市史 民俗編
『戸田市史 民俗編』は、戸田市の市史民俗編から、第三節「伝説」だけを収めたものである。美女木・新曽・上戸田・下戸田・下笹目・惣右衛門の話者が語った、源頼朝の奥州征伐にまつわる美女木の地名のいわれ、下笹目の聖釜のヌシとカッパ、荒川に身を投げた女の地名、美女木八幡の鐘、弘法大師の石芋や弘法清水などを収める。説明伝説・歴史伝説・信仰伝説を広くとり、村・ホラ、石・岩、水、塚、祠堂、その他の六つに分け、各話の終わりに話者の地区を記す。