口元に蕎麦を垂らした宝鏡寺の地蔵
どんな伝承か
竹之下宝鏡寺の本尊の地蔵には、こんな由来が書き残されている。聖武天皇の代に新羅の僧審祥が聖徳太子の作という像をもたらし、草庵で供養したのち像を残して去った。のちに竹之下孫八右衛門が善光寺を建てて安置すると、像は合戦の吉凶を必ず知らせたという。寺は宝鏡寺と改められたが、一時近くの耕雲寺に移されると、像は夜ごと壁を向き、ついには庭へ出て宝鏡寺の方へ座ったので返された。永禄十年十一月、住職の祖及和尚と長く不仲だった藤曲の半右衛門の家に和尚が訪ねて和解を申し出、蕎麦を振る舞われた。翌日礼に行くと和尚は覚えがないと言い、本堂の像の口元に蕎麦が三筋垂れていたので、二人は感じ入って仲直りしたという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
小山町史 第9巻 (民俗編)(小山町史)
『小山町史 第9巻(民俗編)』は、静岡県駿東郡小山町の町史の民俗編から、口頭伝承の章の伝説の節を抜き出したものである。石子詰にされた忍びの若者・用沢小僧の伝えを出典ごとに並べ、むらの名の由来、金太郎ゆかりの地と石、仇討如来や鬼鹿毛馬頭観音、村境の決め方、竹之下合戦にまつわる伝えなどを収める。富士山麓と足柄山のあいだの町に残る、地名と社寺・石に結びついた言い伝えが中心である。