三島明神への昼夜を分かたぬ群参
どんな伝承か
三島宿の騒ぎについて、武州橘樹郡梶ヶ谷村の名主田村庄左衛門は、助郷の負担を軽くするよう嘆願して東海道の宿々を回った旅の記録に、十月十八日からおよそ十日間続いたと書き留めている。家々は店先に青竹を二本立てて注連を張り、神仏の名と天降った日付を記した紙旗を掲げ、奥に神仏を飾って供物を備え、正月のように家業を休んでいた。三島明神への参詣は五人、十人、二、三十人と群れをなし、昼夜を問わぬ裸参りや揃いの衣装の行列が絶えず、夜には提灯を灯して六根清浄を唱えて群参した。田村は二十七日に自らも参詣し、吉原宿在の納米里村から二百人あまりが米三俵を携えて来るのを目にしている。
原典より
三島では、十月中旬に始まり翌月にかけて、とくに三島神社への参詣というかたちで高揚をみていたのである。—— ええじゃないか(高木俊輔) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
ええじゃないか(高木俊輔)
『ええじゃないか』は、幕末維新期の民衆運動を研究してきた高木俊輔が、慶応三年から翌年にかけて広がった「お札降り」と「ええじゃないか」の乱舞を各地の史料からたどった歴史書である。三河吉田での初出から東海道、甲斐、江戸、信濃、伊勢、京都、大坂、中国、淡路、四国まで、日記や記録に残る降札と踊りを国ごとに述べる。概観と東国・西国の四章に続く終章で降札の作為者やおかげ参り、世直しとの関わりを論じ、参考文献を付す。