老医を残して遺体検案を代行
どんな伝承か
六月七日の朝、著者らは警官と老医、人夫を伴って北城村を発ち、大黒岳を目指した。ところが老医をいたわりながら二里余りを進むのに四時間もかかり、雪渓の下の古小屋で昼食をとる頃には、その日のうちに鉱山へ着く見込みはなくなっていた。人夫には早く決めろと急かされ、窮した著者は警官の前で、自分が老医の代わりに検案に要る調べを必ず果たし、必要なら胃や腸を切り取ってでも持ち帰る、罪に問うなら自分を罰せよと迫った。すると頑固に見えた警官はあっさり折れ、むしろ自分も小屋で待つ方がよいという様子だった。著者はこの秘密を守ると誓い合い、事務員と人夫に守られて登り始めた。
原典より
ママよ!此老醫に苦しい思いをなさしめて、一行共に難儀をするより、如かず老醫を此小屋に止め置かんにはと、即ち警官の面前に於て余は左の如く哀訴した。—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。