深山幽谷での冒険と遭難事件
どんな伝承か
明治四十二年、著者は友人の藤沢に誘われて秋田の横手まで同行し、越中下新川郡の大黒鉱山で冬籠りの人夫六人が壊血病で死に、遺体が半年も雪に埋もれたままになっている事件の後始末を、山主の為田文太郎から引き受けた。六月、信州北城村から警官や人夫と大黒岳の大雪渓を登り、鉱山の舎宅で一夜を明かして遺体を掘り出し、雪の上で火葬した。その後は単身で黒部谷の無人境を歩き、廃業した婆谷の温泉で豪雨に閉じ込められて食糧が尽き、餓鬼平では熊の足跡を見つけ、山頂では数十匹の猿の群れに騒ぎ立てられたという。
原典より
山間僻阪の地にありて同時に同一の病魔に侵かされて、同一の場所に於て六人も死ぬと云ふことは先づ以て特筆に値ひすべきことである—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。