落城の日に瑞岩寺で自刃した山口高治
どんな伝承か
南北朝のころ、山口城には山口党の山口修理太夫高治が住んでいた。高治は信濃宮宗良親王に従って南朝のために兵を挙げようと計り、信越方面の軍としきりに連絡を取り合っていたが、決起の前に企てが鎌倉へ漏れ、管領足利基氏の子の氏満に攻め寄せられた。正平二十二年九月十八日に城は落ち、高治は里の瑞岩寺に入って自害した。新田義興が矢口で謀殺されてから九年後、高治三十三歳の秋であったと伝わる。高治の出自については、山口高実入道の子とも、大塔宮護良親王の御子ともいわれるという。
原典より
その高治は、信濃宮宗良親王に従つて勤王の兵を擧げることを畫策し、頻りに信越方面の軍と連絡してゐたが、まだ決行の時期に至らない前にその事が鎌倉へ漏れて、…—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年))
『行楽と史蹟の武蔵野』は、寺島裕が昭和十二年に著し、新生堂から発行した武蔵野の史跡探訪記である。狭山丘や山口貯水池の周辺から、行田・粕壁・生田・淀橋・中野・柴又・多摩御陵などの社寺、城址、古戦場、塚を歩いて訪ね、交通の便とともに由緒や伝説を記す。小橋一太と新井堯爾の序文、著者の自序を巻頭に置き、前著「史蹟の武蔵野を探ねて」に続く行楽案内として土地ごとの短い節を連ねる。