寺崎城を奪った馬加康胤の最期
どんな伝承か
千葉介胤直の長男胤将は寺崎に新しい城を築き、男子がなかったので馬加の康胤を養子に迎えたが、実子が生まれると康胤を馬加へ帰した。千葉本家を継げなくなった康胤は恨みを抱き、管領上杉や臼井城主の原胤房と手を結んで、享徳三年六月六日の夜半に一万余騎で寺崎城を襲った。不意を突かれた城主父子は多古城へ逃れ、康胤は城を奪って千葉介を名乗った。しかし主家を滅ぼして奢る康胤を世の人は天罰が下ると憎み、康正二年九月晦日の夜、岩橋の輔胤らが寺崎城を攻めた。康胤は上総へ落ちたが村田川で追いつかれ、子の胤持を討たれて自ら喉を貫いたという。市史は、これが史実とは限らないと断っている。
原典より
康胤は「今はのがれん術もなかろう」と、引きかえし、上総下総の境の村田川を前に奮戦したが、力遂に及ばず、子息胤持は乱軍の中に討たれ、康胤はまた甲を脱ぎ捨て、立ちながら咽喉を貫き、自刃して果てたという。—— 佐倉市史 民俗編――伝説・怪異(佐倉市(編)・佐倉市史) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
佐倉市史 民俗編――伝説・怪異(佐倉市(編)・佐倉市史)
『佐倉市史 民俗編――伝説・怪異』は、千葉県佐倉市の市史の民俗編のうち、第七章「民俗知識」と第八章「口承文芸」の伝説の節である。市内で採録した吉凶の予兆やまじない、民間薬、天気の言い伝えと、狐や狸の化かし、デーダラボーの足跡、岩富の首なし塚、天狗、狐火、印旛沼のカワボタルなどの伝説を収める。伝説は文化財保護委員会の分類に倣って自然伝説・歴史的伝説・信仰伝説に分け、終わりに村々の禁忌を置く。