六部の仇討と甘露寺の阿弥陀如来
どんな伝承か
菅沼の甘露寺の阿弥陀如来像には因縁話が伝わる。武田家の滅亡後、家臣の湯山将監は菅沼に住みつき、秀吉の小田原攻めで手柄を立てて側近となった。だが文禄四年、伏見城の普請奉行と争って斬り、菅沼へ逃げ帰った。追手に金時山の隠れ場を突き止められたが、内通する村人のおかげで相模へ逃れ、九年後に戻って鮎沢川べりの水の音に隠居した。ある日、如来像を背負った六部が村を探って歩き、羽黒坂で将監を見かけると像を置いて藪に潜み、戻ってきた将監に斬りつけて下垣内で討ち果たした。六部は像を残して去り、像は拾われて甘露寺に祀られた。湯山家では、斬られた馬が葦毛だったので葦毛の馬を飼わないという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
小山町史 第9巻 (民俗編)(小山町史)
『小山町史 第9巻(民俗編)』は、静岡県駿東郡小山町の町史の民俗編から、口頭伝承の章の伝説の節を抜き出したものである。石子詰にされた忍びの若者・用沢小僧の伝えを出典ごとに並べ、むらの名の由来、金太郎ゆかりの地と石、仇討如来や鬼鹿毛馬頭観音、村境の決め方、竹之下合戦にまつわる伝えなどを収める。富士山麓と足柄山のあいだの町に残る、地名と社寺・石に結びついた言い伝えが中心である。