独りで用水を掘った耕雲和尚
どんな伝承か
相州田中村の耕雲寺を開いた耕雲和尚は、二宮尊徳を慕っていた。六十五歳で寺を譲り、そのころ無住だった藤曲の慶林寺に移った。天保の飢饉のあとで、托鉢に出ても乞食坊主と嫌われたが、和尚は土地の形を見て、大久保の滝分けから金桜山の真下まで百五十間の水路を通せば藤曲が開けると見抜いた。この世への置き土産にと、昼は托鉢し、夜はノミで少しずつ掘り進め、何年もかけてついに藤曲用水のトンネルを完成させた。和尚は嘉永六年に亡くなり、廃寺となっていた慶林寺の跡に、昭和十四年、村が観音堂を建てて和尚を祀った。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
小山町史 第9巻 (民俗編)(小山町史)
『小山町史 第9巻(民俗編)』は、静岡県駿東郡小山町の町史の民俗編から、口頭伝承の章の伝説の節を抜き出したものである。石子詰にされた忍びの若者・用沢小僧の伝えを出典ごとに並べ、むらの名の由来、金太郎ゆかりの地と石、仇討如来や鬼鹿毛馬頭観音、村境の決め方、竹之下合戦にまつわる伝えなどを収める。富士山麓と足柄山のあいだの町に残る、地名と社寺・石に結びついた言い伝えが中心である。