加古坂で斬られた藤原光親の塚
どんな伝承か
承久三年、後鳥羽上皇が北条氏討伐をはかったとき、権中納言藤原光親は時期が早すぎると諫めたが聞き入れられず、義時追討の院宣を書いた。謀議はすぐ鎌倉に漏れ、加わった五人の公卿は捕らえられた。光親は甲斐の武田五郎信光に預けられ、同じ年の七月十二日、加古坂で斬られた。四十六歳だった。明治二十年、旧須走村の有志が遺跡の消えるのを惜しみ、許しを得て碑を建てた。須走から国道を登った籠坂峠の近く、左手にその碑がある。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
小山町史 第9巻 (民俗編)(小山町史)
『小山町史 第9巻(民俗編)』は、静岡県駿東郡小山町の町史の民俗編から、口頭伝承の章の伝説の節を抜き出したものである。石子詰にされた忍びの若者・用沢小僧の伝えを出典ごとに並べ、むらの名の由来、金太郎ゆかりの地と石、仇討如来や鬼鹿毛馬頭観音、村境の決め方、竹之下合戦にまつわる伝えなどを収める。富士山麓と足柄山のあいだの町に残る、地名と社寺・石に結びついた言い伝えが中心である。