孕のジャン(怪異考・その一)
どんな伝承か
高知の浦戸湾が山並みを断ち切る孕の海峡には、「ジャン」と呼ばれる怪異が伝わっていた。姿を見た者はなく、夜更けにジャーンと響く音が海の上を通り過ぎていく。漁師が小舟を出して釣りや網をしていても、その音が過ぎると魚は騒いで逃げ散り、その夜は何も獲れなくなったという。鹿持雅澄の書き留めた記録があり、土地で話が破談になることを「ジャンになる」と言うのもここから出たとされた。寺田寅彦は幼い頃、近所の老人から同じ話を何度も聞き、音とともに水面にさざ波が立つとも教わった。のちに筑波山北麓で地鳴りを体験し、ジャンの正体はこれだと直感したという。
原典より
孕の海にジヤンと唱ふる希有のものありけり、誰しの人も未だ其形を見たるものなく、其物は夜半にジヤーンと鳴響て海上を過行なりけり、漁業をして世を渡るとちに、夜半に小舟浮べて、あるは釣を垂れ、或は網を打ちて幸多かるも、…—— 怪異考 - 化物の進化(寺田寅彦) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
怪異考 - 化物の進化(寺田寅彦)
『怪異考 - 化物の進化』は、物理学者寺田寅彦が大正九年から昭和十二年にかけて雑誌・新聞に書いた随筆と談話を集めた本である。土佐の「孕のジャン」や濃尾のギバを地鳴りや空中放電で説く「怪異考」、昔の人が化物を自然現象の説明に用いたことを論じる「化物の進化」のほか、人魂、狸の腹鼓、厄年、夢判断などを科学者の目で語る。各篇の末尾に初出の年月と掲載誌名を記すが、「狸の腹鼓」だけは「単行本未収録」とのみ記す。