伏見稲荷を名乗る若衆が明神を打ち据える
どんな伝承か
新町橋筋のある家で、御降り祝いの本膳が並び、踊子が我先に席に着いた。床の間を背に悠然と坐り込んだのは髭むしゃらの筋骨たくましい男で、自分は玉高大明神だと名乗った。すると下座から、白麻の千早に御幣を持った顔色の蒼白な痩せた若衆が立ち、位なき者が上座に着くとは何事かと咎め、自分は伏見の稲荷だと名乗る。下れと迫っても明神が承知しないので、若衆は千早の袖をまくって拳を固め、明神の頭を丁々と打った。大の男はただ悲鳴を上げるばかりで、居並ぶ踊子数十人も身動き一つできなかったという。
原典より
新町橋筋の或る家での事である。—— 阿波えゝぢやないか(山口吉一・民俗・幕末世相史・1931年(昭和6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
阿波えゝぢやないか(山口吉一・民俗・幕末世相史・1931年(昭和6年))
『阿波えゝぢやないか』は、山口吉一が一九三一年に著した、幕末の「ええぢゃないか」騒動の記録である。慶応三年の暮れに阿波で起きたお札降りと踊りの騒ぎを、県内の古老五十余人からの聞き書きと郡村史誌などの記録によって、起因・神異・服装・歌謡・禁忌などの面からたどる。徳島日々新報への連載をまとめたもので、概観篇・詳述篇・挿話篇・補遺篇から成り、鳥居龍蔵の序、話者の古老の一覧、太田明の「御下り踊私考」を付す。