撫養から吉野川と海岸へ走った流行の道
どんな伝承か
御降りに関する騒擾「ええぢゃないか」は、阿波の国へは十一月末に撫養へ来て、撫養とその近郊を騒ぎ立たせ、次いで阿波一国を狂熱させた。古老の語るところによれば、流行の経路は大略、撫養を発したものが二つの幹線に分かれ、一つは吉野川の流域を遡って名東・名西・阿波・麻植・美馬・三好の各郡を漸次席巻し、讃岐・伊予にまで達した。もう一つは徳島とその近傍を経て勝浦・那賀・海部三郡の海岸線を進み、小松島や羽浦などで分岐しながら、海部郡を貫いてついに国境を越え土佐に移ったという。
原典より
御降りに闘する騒擾の「ええぢゃないか」が、阿波の國へは十一月末に撫養へ來、撫養及びその近郊を騒ぎ立たせ、次で阿波一國を狂熱させたことは、既に述べたとほりである。—— 阿波えゝぢやないか(山口吉一・民俗・幕末世相史・1931年(昭和6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
阿波えゝぢやないか(山口吉一・民俗・幕末世相史・1931年(昭和6年))
『阿波えゝぢやないか』は、山口吉一が一九三一年に著した、幕末の「ええぢゃないか」騒動の記録である。慶応三年の暮れに阿波で起きたお札降りと踊りの騒ぎを、県内の古老五十余人からの聞き書きと郡村史誌などの記録によって、起因・神異・服装・歌謡・禁忌などの面からたどる。徳島日々新報への連載をまとめたもので、概観篇・詳述篇・挿話篇・補遺篇から成り、鳥居龍蔵の序、話者の古老の一覧、太田明の「御下り踊私考」を付す。