無二斎の手裏剣をかわした幼い武蔵
どんな伝承か
天正のころ、美作竹山の城主新免伊賀守の家臣に新免無二斎という豪傑がいて、十手の術を極めていた。将軍足利義昭はその評判を聞いて京都へ召し出し、将軍家の剣術師範吉岡憲法と三番勝負をさせた。吉岡が一度、無二斎が二度勝ち、義昭は感嘆して日下無双兵法者の称号を与えた。その子が宮本武蔵である。武蔵は幼いころから父の兵法の至らない点を指摘したので、怒った無二斎がある日小刀を手裏剣にして投げつけたが、武蔵は二度とも顔をそむけてかわし、九歳で家を出て播州の母方の叔父のもとへ身を寄せたという。
原典より
無二斎は第二の手裏剣を放てば、武蔵また面をそむけてこれをはずす。—— 観念は生物なり(福来友吉・心霊・念写研究) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
観念は生物なり(福来友吉・心霊・念写研究)
『観念は生物なり』は、福来友吉が諸雑誌に発表した論文を集めた心理学と心霊研究の論集で、日本心霊学会刊、序は大正十四年春に箕面山の麓で記されている。観念と身体の関係、夢、潜在精神と病気、プランセット(自動書記)、狐憑病の伝染や尼寺のヒステリー、宮本武蔵の剣道などを論じる。明治四十三年以来接した御船千鶴子・長尾郁子・三田光一ら八人の通力者の透視と念写の実験も報告し、「観念と身体との関係」から「生命学と心霊研究」までの十四篇を収める。