女郎のどてらで城へ駆けつけた児玉
どんな伝承か
神風連の乱のとき、熊本の連隊長だった与倉は、連隊旗を腹に巻いて逃げたと散々な評判を受けた。しかし著者は、娘の家を訪ねて来た与倉の孫の話などから、実は誠実な軍人だったらしいと与倉の名誉のために書き添えている。そのとき下役だった児玉、のちの元帥は、乱の夜に二本木の遊女屋で飲みつぶれており、女郎のどてらを羽織ったまま城内へ駆けつけて砲の指揮をとったと伝わる。児玉の末子とは著者の同窓で、これは本当らしく、居合わせた人も児玉がおしろい臭くて閉口したと語っていたという。
原典より
下役だった児玉元帥は一挙の夜、二本木の遊女屋でのみぬけていて、女郎のドテラをきたまま城内へかけつけ、砲門の指揮をしたということになっている。—— 私の心霊術(長田幹彦・1955年(昭和30年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
私の心霊術(長田幹彦・1955年(昭和30年))
『私の心霊術』は、長田幹彦が昭和三十年に著した心霊研究の随筆集である。死後に残る霊や地獄・極楽をめぐる考えを述べ、熊本の家系や安達謙蔵との交わり、東京放送局の文芸顧問だったころの回想、霊友会など戦後の新興宗教への批判、前著『霊界』への反響と自らの信仰を語る。「心霊科学の来世観」「霊界の構造」「ぼくの信仰」などの章からなり、末章「ある霊媒の生態」では霊媒服部との実験とそのトリックの顛末を描く。