大黒岳の大雪渓登攀
どんな伝承か
六月七日、北城村を出た一行は、右に白馬岳、正面に杓子岳や鑓ヶ岳を仰ぎながら、黒い岩肌が大黒天の座像のようにそびえる大黒岳を目指した。細道が尽きた先は、両側を断崖に挟まれた長い大雪渓の急坂で、雪の下には大瀑布が隠れ、毎年二、三人が滑り落ちて命を落とすという。鳶口を杖に進み、七合目あたりからは鉄のカンジキを草鞋に括りつけて凍った雪を登った。頂上手前の二十間は雪が壁のように立ち、一歩誤れば死ぬという難所で、先に登った人夫が投げ下ろした麻縄にすがって、ようやく海抜八千四百尺の頂に立った。頂は信越の国境をなす馬の背で、雲海の彼方に立山や槍ヶ岳の峰がのぞいていた。
原典より
命掛けとは真に此の時の行動である一歩の蹈み誤りも死、雪塊の崩壊も死兩手の活動を誤まるも皆死の原因を作るのてある、…—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。