山奥へ追われた没落者たち
どんな伝承か
幡多を統治した名門一条家は兼定の代に衰え、天正三年(一五七五)長宗我部元親に打倒された。新しい支配者は一条家の残党を弾圧し、馬荷には四〇〇石という割高な地高を課したうえ、被官百姓や門人を未開地の開拓に送り込んだ。関ヶ原の後に入国した山内一豊のもとでも一領具足は農民に格下げされ、その下の被官は山地へ逃げて荒地を開いた。土佐ではこれを走り者という。一等地の中馬荷には先客がおり、新来者は追われるように一番奥の上馬荷へたどりついた。中馬荷の人々は入村のたびに結束を固め、疎外の理論として犬神信仰を用い、犬神を持って祟りをなす輩として村八分にしたと思われる。
原典より
一三世紀の中頃から、荘園として、あるいは直接に、幡多を統治してきた名門一条家も、兼定の時代になって衰え、天正三年(一五七五) 長宗我部元親によって打倒された。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。