高麗族の移住と最古の寺勝楽寺
どんな伝承か
七世紀に百済と高麗が相次いで滅ぶと、その亡命者が次々に日本へ渡り、多くが武蔵野に住み着いた。朝廷は霊亀二年五月、関東に散らばっていた高麗の人々千七百九十九人を武蔵の奥地に集めて高麗郡を置いた。その一派は狭山の地にも集落をつくり、新しい文化を興したという。この地方で最初の寺とされる辰爾山仏蔵院勝楽寺も、高麗郡が置かれたのと同じ年に創られたと伝え、のちの高麗村新堀の聖天院の前身ともいわれる。仏蔵院は山口貯水池の出現で敷地を奪われ、旧地の勝楽寺村から山口村の六地家へ移った。
原典より
この狭山最古の寺院と云われる「佛藏院」は、山口貯水池の出現に依つてその敷地を奪われ、現在は往時の勝樂寺村から山口村の六地家に移轉したが、…—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年))
『行楽と史蹟の武蔵野』は、寺島裕が昭和十二年に著し、新生堂から発行した武蔵野の史跡探訪記である。狭山丘や山口貯水池の周辺から、行田・粕壁・生田・淀橋・中野・柴又・多摩御陵などの社寺、城址、古戦場、塚を歩いて訪ね、交通の便とともに由緒や伝説を記す。小橋一太と新井堯爾の序文、著者の自序を巻頭に置き、前著「史蹟の武蔵野を探ねて」に続く行楽案内として土地ごとの短い節を連ねる。