便所から天狗にさらわれた少年
どんな伝承か
文化十三年、江戸の南鍋町に、神職の下役を務める野山種麿という男がいた。その息子で少年の多四郎は、五月十日ごろから母の里である芝日蔭町の万屋安兵衛方に泊まり、釘を踏み抜いて寝ついていた。五月十五日の日暮れ、痛む足で裏の便所に立ったところ叫び声がし、駆けつけると姿はなく、片袖がちぎれて落ち、履いていた股引が空から屋根に落ちてきた。天狗の仕業だと知らせを受けた種麿は捜索を止めるよう説き、髪を解いて水垢離をとり、神棚の前で五時間祈り続けた。夜明けに万屋から使いが来て、多四郎が気を失ったまま戻ったと告げた。
原典より
神隠しなるものは明治以来、各地に跡を絶つたことであるから、現今の人は、神隠しを以て古人の迷信と断定し、心理学者輩は、精神上の病的發作で、自分で山野を迷い歩るき乍ら、天狗に連れられて各國を飛び廻ってゐたやうな気分になったの…—— 幽冥界研究資料 第二巻 靈怪談淵(岡田蒼溟・幽冥界研究・怪談) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
幽冥界研究資料 第二巻 靈怪談淵(岡田蒼溟・幽冥界研究・怪談)
『幽冥界研究資料 第二巻 靈怪談淵』は、岡田蒼溟による霊怪の事例集である。祟る石、出雲の瀧姫行者、神西湖の妖怪、但馬の抜け首、黄金の精、海の牛鬼、天狗などの怪異を、著者自身の見聞や知人の談話、古い文書からの移載によって集め、明治・大正期の出雲や松江周辺の事例を多く含む。項目によっては【解題】や註を添え、事例の後に「第二編」と附録の「天狗考」を続け、巻末の「解説の欄」で生霊・疫神・物体の飛来などを心霊研究の立場から論じる。