我が子の斬り合いを他人顔で止めた老人
どんな伝承か
いつのころか、隠居したある老人が明け方に杖をついて歩いていると、市ヶ谷あたりの人けのない所で若侍が二人斬り合っていた。老いても刀を差す身で逃げるわけにもいかないと近づくと、一人は自分の息子だった。驚いたが心を鎮め、他人のような顔でまず息子を、続いて相手を止め、それぞれ主人も親も妻子もあろう、一時のことで命を捨てるのは不義不孝だ、わけがあるなら聞こうと言った。相手は遺恨もない行き違いの口論だと答え、息子も親と知られてはまずいと思ったのか、ふとしたことで斬り合ったと答えたので、老人はほかに見ている人もない、互いに引いてはどうかと諫めたという。
原典より
いつの頃にや、或る老人退隠なして、杖によりて夜明方遊行なせしに、市ヶ谷辺に人離れの場所にて、—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。