新田義貞が稲村ヶ崎に投じた宝剣
どんな伝承か
鎌倉を攻めた新田義貞は、元弘三年五月二十一日、細い切り通しからの攻撃では損害が増すばかりと見て、海伝いに大軍を入れようと考えた。『太平記』によれば、義貞は馬を下り兜を脱いで海の竜神に祈り、自ら帯びた金作りの太刀を海に沈めた。するとそれまで潮の引いたことのない稲村ヶ崎の崖下が遠くまで干上がり、沖の敵の兵船も引き潮に流され、義貞は六万余騎を一手にまとめて干潟を駆け抜け鎌倉へ乱入したという。『梅松論』に宝剣の話はないが、にわかに潮が引いたことは記されている。著者は潮の干満を知った義貞の演出だったと考えている。
原典より
二十一日、本隊を稲村ヶ崎と極楽寺坂口に転進させた義貞は、細い切り通しの攻め口ではいたずらに損害を増すばかりと考え、一度に大軍を市中に攻め入らすためには海を渡る以外にないと決断した。—— 神奈川の史実と伝説(小森良章・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
神奈川の史実と伝説(小森良章・1975年(昭和50年))
『神奈川の史実と伝説』は、新聞記者から県政の仕事に転じた小森良章が昭和五十年に著した郷土史の読み物である。倭建命の東征から鎌倉幕府の滅亡までを範囲に、神奈川県内に残る伝説を十一の篇にまとめ、走水の弟橘姫や足柄山の金太郎などを取り上げる。各篇は伝承地を副題に掲げ、伝説とその背景にある史実を結びつけて語り、古事記や吾妻鏡などの記録を引きながら著者の推測も交えている。