足利氏を恐れ祠に隠した畑児塚
どんな伝承か
上里町金久保の陽雲寺は旧中山道と新しい国道が交わる近くにあり、その入口に南朝の忠臣畑時能の首塚とされる畑児塚がある。時能が越前の鷹巣城で敗れて戦死すると、家臣の児玉光信は主の首を携えて陽雲寺に葬り、墓の傍らに地蔵院を建て入道して菩提を弔い、没後は主の墓の側に葬られた。当時の住僧高安和尚は足利氏の目を恐れ、二人の墓の上に石の祠を二つ建てて白山権現・稲荷明神と称し、畑児塚と呼んで祀った。のちにこれが誤って愛宕塚と呼ばれるようになったという。天正の兵火で祠は失われ、境内が削られて塚が境外となったため、遺骸は今の境内へ移されたと伝わる。
原典より
当時の住僧高安和尚は足利氏をおそれ、畑、児玉両氏の墓上に石祠二個を建てて白山権現、稲荷明神と称した。—— 埼玉県伝説集成——分類と解説 中(韮塚一三郎・埼玉県伝説集成) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
埼玉県伝説集成——分類と解説 中(韮塚一三郎・埼玉県伝説集成)
『埼玉県伝説集成——分類と解説 中』は、韮塚一三郎が編んだ埼玉県の伝説集の中巻で、上中下三巻のうち歴史伝説を収める。地名・屋敷・家系・聖地・城や堤や橋・神仏・神体と宝物・偉業・事件と紛争の九章に分け、県内各地の伝説を『新篇武蔵風土記稿』などの文献と土地の人からの聞き取りによって集めている。一話ごとに所在地と出典または資料提供者を記し、同じ類型の話をまとめた後に柳田国男らの説を引く〈解説〉を置く。