笠利の祝女加奈の殉死
どんな伝承か
島における能呂すなわち祝女の制度は、琉球王家が宗教を利用して三十六島を制御し統一した政策の、最も目に見える遺物であって、その首領である聞得大君が各島の祝女を任命し辞令を下して統轄したのは、島津入り以後もしばらくは引き続いていた。慶長十三年の征服の時にも、笠利の祝女加奈という者が、中山への忠誠から島津の兵法に難色を立て、ついに木鋸で引き殺されたと伝えられる。大島代官の記録を見ると、祝女久米加奈が首里へ上りたいと申し出たのを、何か理由を付けて禁ぜられたことも書いてある。神が俗界の君主を超越するような風習は、早くから薩摩の武士には解し得られなかったのである。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第1巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第1巻』は、柳田国男の著作を集めた著作集の一巻である。椰子の実の漂着から日本人の渡来と稲作を海の道に求める論考と、海神宮考・みろくの船・根の國の話・寶貝のこと・稻の産屋などの諸篇、大正期の南島旅行に基づく『海南小記』、昭和二十六年八月の自序をもつ『島の人生』を収める。いずれも海と島を舞台に、ニライカナイや宝貝、漂着や島の復興をめぐる民俗と歴史を論じている。