皇女和宮と縁切り榎
どんな伝承か
文久元年十月、公武融和を図って孝明天皇の妹和宮が将軍家茂に嫁ぐこととなり、その降嫁の行列は東海道の薩埵峠を避けて中仙道を通ることになった。ところが板橋には縁切り榎があり、これを切り倒そうとしたが住民の反対にあった。もとは旗本近藤登之助の屋敷内の榎で、皮を粉にして嫌う相手に飲ませると縁が切れると信じられていた。結局行列は川口へ迂回し、榎は切られずに残った。縁切り榎は明治以後も多くの男女に信仰され、今日に至ると伝わる。
原典より
幕末の江戸、京都の民衆にとって、もっとも話題となったのは和宮降嫁である。—— 幕末ニッポンあれやこれや -縁切り榎 より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
幕末ニッポンあれやこれや -縁切り榎
『幕末ニッポンあれやこれや -縁切り榎』は、幕末の世相を題材にした読み物のうち、「皇女和宮と縁切り榎」の一篇を収めたものである。文久元年の和宮降嫁の行列が、板橋の縁切り榎を嫌って川口へ迂回した話を中心に、榎の皮を粉にして相手に飲ませると縁が切れるという民間信仰の由来と、埼玉県大里郡久毛の「縁むすび椿」がもてはやされた顚末を記す。末尾では伊藤晴雨が昭和初年に写生した図に触れ、根もとの枯木が本来の榎で実はケヤキだという説を添える。