忿心其身を登揚せる事
どんな伝承か
馬場嘉平治という研屋がいた。親は紀州家の分家である松平摂津守の家臣だったが、浪人して研屋で暮らし、嘉平治も家業を継いでいた。武家からの注文の手紙に軽く「嘉平治どの」と書かれるのを無念に思い、武士に戻りたいと剣術や柔術に励んだが、自分の流儀に満足できず、親しい尾張家の家来四の宮与野右衛門に流儀を変えるべきかと相談した。四の宮は、志が定まらない者とは付き合わぬと笑って突き放した。嘉平治はこの言葉に発奮して修行に打ちこみ、ついに奥義を得て多くの弟子を持ち、諸侯からも師と仰がれた。のちに四谷の裏店のそばに屋敷を買って師範となり、四の宮のもとへ礼に行くと、四の宮も大いに喜んだという。
原典より
其時一通ならば、他の地面へも引移り昔を隠すべきなるに、四ッ谷にて最初三百店を借請くらしける近所にて、三百両の屋舗を求め武芸の師範をなしけるが、…—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。