名人の芸其練気別段の事
どんな伝承か
小野派一刀流の祖、神子上典膳は徳川家に召し出されて小野次郎右衛門と名乗った。その弟の小野典膳忠也は諸国を巡ったのち安芸の広島で没し、広島では忠也流として弟子が多く、藩主も敬って、忠也が使った竹の木刀を神体として祀り、いまも祭りを絶やさない。この流儀に通じた広島の藩士近藤某が江戸へ出て一刀流の同門と試合をしたところ、構えも勝負ぶりも他流とは思えないほど見事だった。特別な伝授でもあるのかと問われると、何もない、ただ毎日欠かさず忠也の木刀を拝んで気を練っているだけだと答え、一同は大いに感心したという。
原典より
依之芸州にては忠也流と云ひて、右忠也の弟子多く、国守も尊崇して今に其祭祀を絶へず、…—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。