戒壇を拒まれ皇子を呪った頼豪
どんな伝承か
白川院の御位の時、后腹の皇子がお生まれにならないので、主上は心元なく思召して三井寺北院の實相房頼豪阿闍梨を召し、望みは何なりとも叶えると仰せて皇子の祈祷を頼んだ。その功が挙がり、承保元年十二月十六日に皇子が降誕された。主上が恩賞は何を望むかと問うと、頼豪は園城寺に戒壇を立てたいと願ったが許されなかった。頼豪はこれを恨み、我から祈り出した皇子なれば我死して皇子を取り悲しませるに如かずと言い、道場に立て籠もり断食呪咀してついに餓死した。その後皇子は悩まれ、近江の野洲・栗太両郡に六十町の田地を寄附して祈らせたが、承暦元年八月六日、御年四歳で隠れさせられた。敦仁親王である。
原典より
頼豪之を恨み「我から祈り出し奉りし皇子なれば、我死して皇子を取悲しませんに若かず」と言ひ、道場に立籠り断食呪咀して終に餓死した。—— 幽霊は語る(梶天真・1938年(昭和13年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
幽霊は語る(梶天真・1938年(昭和13年))
『幽霊は語る』は、梶天真が編んだ幽霊譚と幽霊論の集成で、昭和十三年に文明社から出た。新聞・雑誌の記事や井上円了・柳田國男・高峰博らの所説、古典の文を出典を添えて引き、葬送の習俗や布哇の霊魂観から説く幽霊思想、幻覚や網膜による説明、乃木大将が見た我が子の幽霊などの実話を集める。三篇に分かれ、第二篇は男女の幽霊・怨霊・生霊・小児の見た幽霊・前知らせなど八項、第三篇は幽霊写真・化物屋敷・霊界通信を扱い、巻末を夕張と筑前の幽霊問答で結ぶ。