門跡の駕籠に頭を入れた老婆
どんな伝承か
文政の二、三年ごろのことか。東本願寺の門跡が久しぶりに江戸へ下向すると聞いて、江戸も近郷も大騒ぎになった。棒手振を渡世にしていた語り手は商売を休み、鈴ヶ森の手前まで出て待ち受けた。念仏の声が波のように湧くなか駕籠が目の前まで来ると、背の高い婆さんが人を突きのけて前へ出、垂れを頭ではねのけて駕籠の中へ頭を突き入れた。婆さんの体はすぐよろけて戻り、額には門跡の白い手がかかっていた。遠くの者はそれを、門跡が特別に手を触れたのだと見てとる。ありがたいと群衆が押し寄せ、助けを求める声も届かぬまま、婆さんの髪は一本残らず抜き取られて尼のような頭になった。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本の怪談(二)(田中貢太郎・日本の怪談シリーズ)
『日本の怪談(二)』は、田中貢太郎が著した怪談・奇談の短編集である。著者の郷里である土佐の高岡郡や長岡郡の山村の話を多く含み、越中の放生津や立山、利根川の河口、館林の城下、江戸の碑文谷などを舞台に、蟹や蛇の怪、鮭の祟り、山姑、亡者宿、切支丹の処刑にまつわる怪異を物語の形で書く。「蟹の怪」から「鶏物語」まで二十八篇を収め、友人から聞いた話として語る篇もある。