二日後に現れた至誠の念写
どんな伝承か
福来友吉が三田光一に初めて会ったのは、大正六年二月八日の夜、岐阜県揖斐郡の坪井秀の家であった。福来は、精神は空間を超えるのだから、離れた二枚の乾板を一枚と見なして写せるはずだと持ちかけた。三田は三尺ほど離して置いた二枚に至誠の二字を念じたが、現像しても何も出なかった。それでも三田は写った手応えがあると言い、先生の鞄か東京の家の乾板に出ているはずだと述べた。鞄の乾板も空だったが、二日後の名古屋の公開実験で、桂公の肖像の両隣の乾板をつなぐと至誠の字が現れた。福来はこれを潜在していた観念による念写と見た。
原典より
私の解説によると、これは詰り八日の夜、坪井秀氏の宅で念じて置いた至誠の文字が、十日の午後、名古屋の實驗會の乾板に現出したのである。—— 三田光一の念写と透視能力に関する研究記録(福来友吉) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
三田光一の念写と透視能力に関する研究記録(福来友吉)
『三田光一の念写と透視能力に関する研究記録』は、福来友吉の著作から霊能者三田光一を扱う節を抜き出したものである。大正六年の通信による透視実験と、同年の名古屋の県会議事堂、大正七年の尼ヶ崎実科高等女学校、昭和四年末から翌年元日の日本地下水協会、昭和五年の京都嵯峨と牧野家での念写実験を、立会人や乾板の封じ方まで詳しく報告する。地下水協会と嵯峨の実験には著者の感想が付き、前節の透視実験の末尾、霊の幻化の章の序論、ホープ氏の節の冒頭も含む。