囁きが燃やした山小屋のズボン
どんな伝承か
甲府盆地の西にそびえる櫛形山は、奥千重岳という別名も持つ。その裏手の山上にはかつて牧場だった土地があり、林のふちに人の住まない小屋が一つ残っている。著者はその囲炉裏端で、教え子の女性と、その恋人になった山仲間と三人で夜を過ごしていた。男が横になって眠り込んだので、寝ている耳に何かささやいたらどんな夢を見るかと思いつき、女性が息のような小声で火事だと吹き込んでみた。すると男は目玉をかっと開いて起き上がり、両手で自分のズボンを激しく叩きはじめ、焚火がはねて火がついたと言い張った。焦げ跡ひとつない。山では火の粉の音を絶えず気にしているから、その心配とささやきが結びついて飛び火の光景を作り上げたのだろうという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
山とお化けと自然界(西丸震哉・山岳・怪異エッセイ・1990年(平成2年))
『山とお化けと自然界』は、西丸震哉が旧著三冊を編み直し、一九九〇年に文庫版あとがきを付けた随筆集である。山や湿原の探検、チョウや小動物とのつき合い、酒の話とともに、横尾谷の岩小屋で出会った幽霊、木曾御岳の人魂、亡兄との交信、テレパシー、呪い殺しの実験、雨やみの術など、著者自身の体験した怪異をつづる。生き物・酒・山・兄との交信の四部からなり、あとがきに『未知への足入れ』『山だ原始人だ幽霊だ』『山の動物誌』を元にしたと記す。