小手指ヶ原で激突した新田・足利の二十万騎
どんな伝承か
正平七年、新田義貞の三男義宗は、異母兄の義興、従兄弟の脇屋義治とともに、父がかつて北条勢を破った武蔵野の小手指ヶ原へ兵を進め、足利尊氏の軍と雌雄を決しようとした。上野で兵を挙げた三人のもとには丹党や児玉党などが加わって十万余騎にふくれ、わずかな手勢で鎌倉を発った尊氏の側にも、道中で仁木・畠山や河越・江戸などの諸族が駆けつけて十万余騎となった。閏二月二十日の朝、二十万騎が向かい合って鬨をあげると、義興がみずから先陣となって平一揆へ斬り込み、義治も白旗一揆へなだれ込んだ。やがて花一揆の崩れをきっかけに足利方は総崩れとなったという。
原典より
然も、平一揆と白旗一揆が實に苦戦の裡にある時に、この花一揆までが亂軍に陷ちたので、続く御所一揆も遂に浮き足立つて、尊氏必死の下知も及ばず、全軍は漸て總崩れを始め出したのである。—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年))
『行楽と史蹟の武蔵野』は、寺島裕が昭和十二年に著し、新生堂から発行した武蔵野の史跡探訪記である。狭山丘や山口貯水池の周辺から、行田・粕壁・生田・淀橋・中野・柴又・多摩御陵などの社寺、城址、古戦場、塚を歩いて訪ね、交通の便とともに由緒や伝説を記す。小橋一太と新井堯爾の序文、著者の自序を巻頭に置き、前著「史蹟の武蔵野を探ねて」に続く行楽案内として土地ごとの短い節を連ねる。