年に二百三十八人が出た湯治熱
どんな伝承か
守山領では湯治に出る者が異様に多かった。享保年間から急に増えはじめ、延享二年には一年に二百三十八人が湯治に出かけている。人口がせいぜい六、七千人の領地としては驚くべき数である。行先は上山が九百三十八人、那須が四百七十六人、信夫の飯坂、土湯、白川湯とつづき、北は仙台の釜崎、南は草津や箱根、熱海、さらに紀州熊野本宮にまで足をのばした。この熱は寛政年間まで続き、凶作を背景に百姓一揆と打ちこわしが起きた寛延二年にすら九十五人が出かけている。筆者は抜け参りと同じく、閉ざされた暮らしからの自己解放だったとみている。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
疫病と狐憑き-近世庶民の医療事情(昼田源四郎・昭和中期(推定))
本書は江戸時代の陸奥奥州守山藩領における『御用留帳』を史料とした、近世農村の医療事情と心霊現象の研究である。狐憑きや物付きなどの精神疾患が、祈禱や指籠入れ(座敷牢)によって治療された実例を14件詳述する。天明・天保の飢饉や流行疫病(疱瘡、麻疹、コレラ等)への対応と並行して、乱心者の社会的処遇、責任能力の鑑別問題、欠落(逃亡)との区別が論じられている。