昌平橋で行き会った死んだ若侍
どんな伝承か
中山という人の家に仕えていた若い侍は、たいそう利発で主人にかわいがられていたが、寛政七年の暮れに流行の疱瘡にかかって亡くなり、主人たちは手厚く弔った。ところが中山の家と親しい男が昌平橋を渡っていると、その死を知らないまま当の若侍にばったり出会い、主人はお変わりないかと尋ねると、相変わらず無事だと答えて別れた。後日中山の家を訪ねて若侍のことを聞くと、すでに亡くなったと言う。驚いて先日昌平橋で会って話をしたと告げると、中山も大いに驚き、魂がさまよい出たのだろうと念仏を唱えて供養したという。
原典より
驚きて「日頃昌平橋にて行逢ひ対面せし」と言ひければ、中山も大に驚き、「遊魂のあらはれ出でたるなるべし」とて、念仏・供養をなしけるとなり。—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。