大坂城天守焼失の注進に落ち着いた花押
どんな伝承か
享保の初めごろ、大坂城の天守が雷火で焼けたことがあった。ふだん火事の少ない土地柄だったので上下大騒ぎとなり、江戸への注進状を作って城代や城番、番頭らが一同に花押を据えた。ところが大番頭の岡部某はいかにも丁寧に花押を書くので時間がかかり、城代も退屈していようと同役らが、十分よく見えるから急ぎ調印されよと促した。岡部は、火事の注進が少しくらい遅れても差し障りはないが、こういう時に書判や書面が粗末だと、番頭たちはうろたえていると江戸で心配されるだろうと答え、取り合わずに静かに調印したという。人々はもっともだと感心した。
原典より
享保のはじめにや、大坂殿守雷火にて焼し事あり。—— 耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
耳嚢(みみぶくろ)(根岸鎮衛・江戸随筆・怪異・1809年(文化6年))
『耳嚢(みみぶくろ)』は、根岸鎮衛(守信)が勤めの合間に古老や訪ねて来た人から聞いた話を書き留め、佐渡在勤のころからまとめ直して文化六年仲秋に結びを付した随筆である。武家・町人の逸話や奇談に加え、狐・狸・幽霊・妖獣などの怪異、羽蟻や虫歯・ものもらいを治めるまじない、薬の秘法を、一項ずつ題を掲げて記す。この本文は著者の自叙と巻之一から巻之十まで(巻之四を欠く)の抜粋で、巻末に著者の結びと『耳嚢副言』の一部を置く。