花道の客席に見えた先妻の顔
どんな伝承か
昭和十年三月興行、歌舞伎座では五世尾上菊五郎の三十三回忌追善の演目がかかった。尾上鏡春曙の山村座芝居前の場で、男伊達が本花道、女伊達が仮花道に並び、台詞を受け渡していく。三津五郎から幸四郎へ、幸四郎から滝の川のおひでに扮した秀調へ回ったとき、習慣で客席へやった秀調の目に凄艶な女の顔が映った。秀調は震え上がり、舌が硬ばって何も言えなくなる。時蔵が代わりに受けてその場は繕われたが、以後秀調は口がろくに利けず舞台を休んだ。その女は先妻の常子だった。別れ際に取り殺してやると言い残した常子の姿は、旅館でも待合でも秀調の目に現れるようになっていたという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本怪談実話(田中貢太郎・河出文庫・1938年(昭和13年))
『日本怪談実話』は、田中貢太郎が昭和十三年に著した実話怪談集を河出文庫に収めたものである。明治以降に著者が聞き集めた怪異を報告調の短文で綴り、戦地の霊験や戦死者の知らせ、狐狸・天狗・海坊主、トンネルや自動車に現れる女、幽霊写真、狐狗狸などを扱う。元本は改造社刊の『新怪談集(実話篇)』で、冕言に始まって二百を超える小話を並べ、巻末に川奈まり子の解説を付す。