番所を巡る歌声と消えた美少年
どんな伝承か
黒船が来て世の乱れた幕末のこと。春まだ浅い霜の夜、参勤の某藩の侍たちが門の番所で夜を徹していると、三更の頃、戸外の通路を若く美しい声が通った。江戸を見るなら今のうち、辰巳を過ぎればもとの武蔵野になる、という歌である。何者かと叱って飛び出しても、姿はどこにも見えない。翌夜は別の番所の前、その次はまた別の番所と、順を追って同じ声が同じ歌を謡い、誰ひとり主を見た者がなかった。将軍が捕えた者に恩賞を出すと布告しても捕まらず、侍たちはついに聞き流すようになった。やがて月の明るい夜、町角で一人の侍が、天童のような装いの十二、三の絶世の美少年を見たが、その姿はたちまち掻き消えた。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
怪談珍話集(細越夏村・1908年(明治41年))
『怪談珍話集』は、細越夏村が明治四十一年に著した怪談集である。陸奥や北奥の村、北陸の山中などを舞台に、因果応報の怪、幽霊との組打ち、狐女房の子孫、ひとりでに裂ける鏡、飛ぶ柩といった話を、筆者が学友や知人から聞いた話や自身の見聞として、文語まじりの文体で記す。十八の話に題を立てて並べ、最後の「僕の不思議」は筆者が幼いころに見たという猫の幽霊など身辺の不思議で結ぶ。