長尾家のラッパ節三首
どんな伝承か
長尾郁子の実験が中止されたあと、長尾家の人々は学者たちへの憤りを当時はやりのラッパ節に託して三首の歌を詠み、東京の知人の家へ手紙で送った。郁子の歌は、乾板が無いことを透視で見破られた学者が慌てて東の空へ逃げ帰ったと皮肉るもので、これがそのまま彼女の絶筆になった。長尾愛子の歌は、浅知恵の学者の悪口はかえって自分の愚かさを広告するものだと笑い、夫の與吉は、井戸の中の蛙のような学者がいくら騒いでも天地の大きさは分かるまいと詠んだ。著者は、一家が恨みを公にせず、歌に託して知己にだけ伝えたことを、同情に値すると記している。
原典より
長尾一家の人々が當時の憤怨を俗謠ラッパ節によせてものでせる左の三首は今尙ほ東京の信用確實なる某家に於て郵送せられし信書の儘大切に保存せられてあるが、…—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。