大黒鉱山六人死事件の依頼
どんな伝承か
明治四十二年五月、友人の藤沢に誘われるまま、浴衣一枚で秋田県の横手町まで同行した著者は、旅宿で藤沢を待っていた為田文太郎に引き合わされた。為田はかつて東北の金山王とうたわれた鉱山主で、越中下新川郡の山奥に持つ銅山で、その年の春に一度に六人もの病死者を出していた。新聞に社会問題、人道問題と書き立てられて非難を一身に浴び、半年近くたっても遺体の片付けすらできず、雪解けの時期になっても自ら鉱山へ出向けずに困り果てていたのである。為田と藤沢に懇願された著者は、陸中の鉱山へ行く約束を反故にし、義侠心と怖いもの見たさから事件の後始末を引き受けた。
原典より
そこて爲田や藤澤等の切なる依頼で、余は陸中の某鑛山迄出張すべき約束を破却りて、半ば義俠的に半ばは恐い物見たさの好奇心と、血氣の輕舉とに駆られて、快よく其要求を受任した、…—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。