鎌倉から持ち帰った勝利地蔵
どんな伝承か
鎌倉時代、早俣村に早河小四郎勝利という武士がいた。文永と弘安の二度の蒙古襲来では一族郎党を率いて博多で奮戦し手柄を立てたが、戦いが重なるうちに一族はみな討死し、勝利ひとりが生き残った。その後も三十余年九州で守りに就いたが、老いて暇を願い、應長元年の正月に故郷へ戻った。帰り道に鎌倉で仏師から守り本尊の地蔵を譲り受け、早俣にお堂を建てて祀った。自らは髪を下ろして観仏と名を改め、一族の後生を祈って朝夕地蔵に仕え、その年の五月二十日に眠るように世を去った。光明寺の境内には勝利を弔う板石塔婆が今も立っている。
原典より
勝利は帰る途中、鎌倉にて仏師から守り本尊の地蔵さまを譲りうけて帰った。—— 東松山市史 資料編 第5巻(民俗編)――伝説(東松山市(編)・東松山市史) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
東松山市史 資料編 第5巻(民俗編)――伝説(東松山市(編)・東松山市史)
『東松山市史 資料編 第5巻(民俗編)――伝説』は、東松山市の市史の民俗編のうち、伝説の部分を収めたものである。岩殿山の悪龍退治や比企一族の落人の話、永福寺の河童の詫証文、箭弓神社の銭絵馬、狐に化かされた話、神かくし、雪女郎など、市内の寺社・坂・沼・塚にまつわる四十六話を載せる。多くは会話を交えた物語の形で書かれ、筆者が幼い頃に母から聞いた話や古老から聞いたままの話も含み、末尾に〔 〕で由緒や文献の注を添える。