山本家の出自
どんな伝承か
出雲市の中心から国道九号線を西へ約一〇分、穀倉地帯の真ん中に築地松をめぐらせた豪壮な邸宅が二軒並ぶ。右手が中和久里の分家である西和久里で、総本家の東和久里が廃絶した今は中和久里が山本同族団の中心をなす。屋敷の広大さは島根県一で、空になった米蔵を利用して出雲民芸美術館を併設し観光客を集めている。中和久里が分家した享保年間、地元の知井宮本郷ではすでに階層分化が進んでいた。山本家は神西湖から日本海へ抜ける差海川の開さく費を負担し、大砂丘地帯の砂防林造植を引き受けて藩から特権を得、寛政年間には総所有田畑約一四〇町歩の松江藩第一の大土地所有者となった。
原典より
出雲市の中心地から車で約一〇分、国道九号線を西へ進むと、左手の穀倉地帯の真ん中に、巨木の築地松をめぐらせた豪壮な大邸宅が二軒並んで、いやおうなく目につく。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。