出雲大社の狐落とし
どんな伝承か
出雲大社の千家・北島の両国造家も、盛んに憑きもの落としを行っていた。隠岐国海士郡豊田村の三吉屋は狐持ちの汚名をすすごうと大社に祈禱を願い、両家から祈禱済みの書付を受けている。村方に狐持ちとされて息子周三をいびり殺された三吉屋きくは、二十両を投じて千家の蟇目の祈禱を受けたが効き目はなく、孫の峯太は北島家を訪ねて御神閹を願い、明治十年に再び願い出た際には重ねての御神閹は許されず、代わりに玉串を授かった。蟇目は屏風の内で呪文を唱えた神職が俵の上の的へ矢を射て憑きものを落とす法で、両家とも人狐の文字は表立って使わなかったという。
原典より
地方神道界の最高権威である出雲大社の千家・北島両国造家もまた、さかんに憑きもの落としを行なっている。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。