根強い狐持ち迷信
どんな伝承か
狐持ち迷信は、物質的な基盤が崩れてもすぐには消えなかった。敗戦直後の混乱で人々は暮らしの不安におびえ、新興宗教が次々に生まれて村の祈禱師も再び活躍の場を得た。昭和二十三年に松江法務局ができてから二十七年末までに、この迷信にからむ人権擁護事件として表に出たものだけで四十六件あった。そして昭和二十七年十一月十八日の午後四時、大社町の自転車商松井操(二十四歳)と出雲市の美容師江田富江(二十三歳)が、それぞれの自宅で申し合わせた時刻に青酸カリを飲んで命を絶った。結婚を誓った仲だったが、富江の家が狐持ちだとして操の両親に猛反対されたためだという。
原典より
二五〇年以上も山陰の人々の心に深くこびりついた偏見は、その物的基礎が崩壊したからといって、直ちに立ち消えることはなかった。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・1975年(昭和50年))
『出雲の迷信』は、狐持ちの家に生まれた国史研究者の速水保孝が、一九七五年夏のはしがきを付けて著した啓蒙書である。出雲・伯耆・隠岐に根強い狐持ち迷信を、自身の結婚や子ども時代の体験、柳田国男との対話、土佐の犬神統の調査、松江藩の文書、祈禱師と村八分の実例からたどり、家名や人名もほぼ実名で記す。わが家は狐持ちに始まる九章で、憑きものの意味、狐持ちの発生と実態、戦後の打破運動を述べ、狐持ちのなくなる日で結ぶ。