はらわたを投げた楚立将軍の塚
どんな伝承か
八幡太郎義家が蝦夷地遠征の途中、福良の大将地に滞在していると八幡岳に狼火が上がり、東方面軍が中地・三代を落として馬入峠よりの福良軍と合体した。会津へ進むにはまず赤須を従わせねばならなかったが、安倍宗任・貞任の血を引く楚立家は帰順せず、安倍族鎮守の布引月山神社に祈誓し、一族郎党を城に召集して立てこもり、幾月も奇襲を重ねて頑強に抵抗した。やがて食糧が尽きて一族は乱入し斬り死にし、楚立将軍は矢櫓の上で腹を割いて自らのはらわたを包囲軍へ投げつけて息絶えた。義家軍はその屍を丁重に葬り、塚を築いて供養した。その跡を将軍塚と呼び、今も拝みに来る人がいる。
原典より
八幡太郎義家が、蝦夷地遠征の途中、福良の大将地に滞在していると、八幡岳に狼火が上がり、戦機は熟して東方面軍が、中地・三代を陥し入れ、馬入峠よりの福良軍と合体して、いよいよ会津へ進攻出発するために、まず、赤須を従わせなけれ…—— 郡山の伝説(郡山市教育委員会(編)・大島建彦(監修)・ふるさとの文化財調査事業・1986年(昭和61年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
郡山の伝説(郡山市教育委員会(編)・大島建彦(監修)・ふるさとの文化財調査事業・1986年(昭和61年))
『郡山の伝説』は、郡山市教育委員会が大島建彦の監修を受けて昭和六十一年に編んだ伝説集である。昭和五十九年度の「ふるさとの文化財調査事業」で調査員が市内全域から採集した伝説を中心に、郷土誌などで補った話を収め、采女伝説や坂上田村麻呂・源義家・弘法大師にまつわる話が多い。『日本伝説名彙』にならって木・石岩・水・塚・坂峠山・祠堂・家村・祭礼行事の部に分け、各話に伝承地と報告者名を添え、巻頭に監修者の解説を置く。