宝応寺の千体仏
どんな伝承か
江戸時代初期、中野や稲荷山を治めていた神保安芸守という殿様は、伊能の宝応寺に奥方を残し、自らは江戸屋敷で将軍に仕えていた。関ヶ原の戦いなどで多忙を極め、なかなか領地に帰れずにいるうち、奥方は心労のあまり病に伏し、殿様が駆けつけたときには手を握ったまま息を引き取ってしまったという。悲しんだ殿様は宝応寺の和尚に弔いを頼み、陸奥国湯殿山の宗休という上人を呼び寄せた。宗休はみずから阿弥陀如来像を彫り続け、半年ほどで千体を完成させて本堂に納めた。これが今に伝わる宝応寺の千体仏だという。
原典より
江戸時代の初期に中野や稲荷山を支配していた神保安芸守という殿様がいた。—— 大栄町史 民俗編(大栄町) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
大栄町史 民俗編(大栄町)
大栄町編『大栄町史 民俗編』を全26話・伝説(1見出し=1話)単位で収録(緒言・序・名義・解説・和歌・注は除外/内包)。所在地(郡村区・社寺)を付して集成。