三成が水攻めに築いた石田堤
どんな伝承か
忍城を攻めあぐねた石田三成は、最後の策として高松城の故智にならい、利根と荒川の水を引いて城下を水浸しにする水攻めを決行した。これが戦史に残る忍の水攻めである。しかし城方には荻野伝兵衛の娘のような女丈夫もいて城兵のために活躍し、通水工事に強いて雇われた里民も、敵軍から受けた日給を白米に代えて城中へ寄進するといった有様で、忍方は上下こぞって力を尽くした。逆に石田方は自ら引いた水に押されて陣営の後退を余儀なくされ、かつて上杉謙信が築きかけた堤防を修理増築し、吹上駅の南方袋村から堤根村・埼玉村を経て長野村まで一里余にわたって築いた努力も水泡に帰した。その築堤の跡が、忍城から南方一里余の堤根村に石田堤として今も残されているという。
原典より
この忍城から南方四籽餘(一里餘)の堤根村には、其時石田軍の築いた忍城水攻戰の遺蹟が、「石田堤」として今も残されてゐるそうである。—— 行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
行楽と史蹟の武蔵野(寺島裕・1937年(昭和12年))
『行楽と史蹟の武蔵野』は、寺島裕が昭和十二年に著し、新生堂から発行した武蔵野の史跡探訪記である。狭山丘や山口貯水池の周辺から、行田・粕壁・生田・淀橋・中野・柴又・多摩御陵などの社寺、城址、古戦場、塚を歩いて訪ね、交通の便とともに由緒や伝説を記す。小橋一太と新井堯爾の序文、著者の自序を巻頭に置き、前著「史蹟の武蔵野を探ねて」に続く行楽案内として土地ごとの短い節を連ねる。