西方寺の鐘で始まった竹原の打ちこわし
どんな伝承か
慶応三年の正月十六日の夜、竹原の町で暴徒が西方寺の境内に集まり、大小の鐘を撞き鳴らして、竹槍を手にしたおよそ千人が立ち上がった。彼らは豪家や米屋、商家に押し入って品物や金銀を奪い、二十軒ほどを打ち壊した。流民に盗賊も多く混じっていた。酒造家や富家は門前に酒飯を並べてもてなし、被害を防ごうとした。目明しを兼ねる角力の行司の横山音五郎は、竹槍で大石浦の若者孫七らを刺し殺した。翌十七日には近村からも人を募って三千人ほどに膨れ、孫七の仇だとして音五郎と姉を殺し、隣の下野村から新庄村まで米商の家を壊して、夜には西方寺の屯所へ引き揚げた。十八日も群衆は散らず、贈られた金品の分配で揉めたと頼永祺は記す。
原典より
丁卯正月十六日夜五つ時より、市中悪賊西方寺境内へ群集、大小の鐘を撞出し、凡千人計軍勢各竹槍を持蜂起、市中を横行し、豪家米店諸商家へ乱入、殊外乱暴狼籍甚し、…—— 尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
尾道市史 -新修-第2巻(尾道市史)
『尾道市史 -新修-第2巻』は、第二十一節「「お札降り」と「ええじゃないか」」だけを収めた抜粋である。慶応三年の冬、尾道で伊勢大神宮などの御札が降ったとして町中が踊り騒いだ一件を、尾道一宮社文書、芸藩の会計係の「尾道出張日記」、友松山荘の「伝家録」で示し、竹原下市の頼家の日記や書状、広島の例と比べる。後半は学界の諸説を紹介し、栗田年誌から米価の高騰や竹原の打ちこわし、栗原村の徒党の記録を引いて、世直しの動きとの関わりを論じる。